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インダストリアルデザイン・
アーカイブズ研究プロジェクト
Industrial Design Archives Project

デザイナー達の証言 08

原点のT字型

市川 邦治Kuniharu Ichikawa

1949年 大阪市に生まれる。1966年 大阪府立西野田工業高等学校(現・西野田工科高等学校)工業デザイン科卒業後、1967年 松下電工株式会社(現・パナソニック株式会社)に入社。宣伝企画、住宅設備、家電商品デザインに携わり、商品企画部長、照明デザイン室長などを歴任。シェーバー、マッサージチェア、ヘアーアイロン、てんぷら油クリーナーなど、幅広い分野の商品開発を手がけ、ヒット商品を創出。2009年 定年により同社を退職後、市川邦治デザイン室を設立、大学非常勤講師や人材開発機関で講師を務めるほか、商品開発やデザインコンサルタントとして活動している。

電気シェーバーの世界三大メーカーと言えば、フィリップス、ブラウン、そしてパナソニック(旧松下電工)である。しかし、パナソニックにとって電気シェーバーという商品は、戦後まったくのゼロから、海外の先行商品の特許情報を読み漁るところからはじめられた。ライバル社の大きな背中を必死で追いかけ、気がついたら世界の3番目。日本のメーカーはどこも後を追ってこない状態である。そんなパナソニックの電気シェーバー史をひも解くと、ひとつの大きな驚きに出会う。パナソニック電気シェーバー史上、もっとも多くを売り上げたシェーバーも、これまでの電気シェーバーのイメージを覆した画期的なデザインも、ある20代の若者の素直な手と反応から生み出されたということだ。その半世紀前の若者、市川邦治氏に話を聞く。

大阪生まれ。

生まれも育ちも大阪、天満橋の近くです。親父とおふくろが家内工業みたいな感じで、着物の裁断や縫製の仕事をしてました。ちっちゃな家にちっちゃな庭がついていて、戦後間もない頃ですから、まだ薪でご飯炊いてました。大川でようチャンバラごっこして遊んでましたね。
高校は西野田工業の工業デザイン科です。戦前は木材工芸科だったんですけど、戦後、工業デザイン科に変わりました。僕らの時代は工業高校に女子がどっと入ってきたときで、デザインは半分以上女子。女子はみんな賢いんですよ。高校入試満点の女子がいたと、あとから先生に聞きました。僕は勉強できなかったんで、部活で柔道ばっかりやっていました(笑)。
2年生で高校最初の課題に取り組むことになって、たまたまですけど電気カミソリを選んだんです。で、いきなり松下電工に電話して「教えてくれ」とお願いしました。そこは大阪やからね(笑)。もうお亡くなりになりましたが小野さんという方にお会いして、いろいろお話聞かせてもらって、潰れている電気カミソリをいただいて帰ってきました。3年生になると初っ端から就職活動ですけど、5月か6月に松下電工の採用試験があったと思います。別に学校推薦とかあるわけではなくて、電工には西野田工業のOBもいなかったですから、真正面からの勝負です。学校で「僕、受けたい」って手を上げたら、先生が「ほんならお前、受けてこい」と。「成績は一番と書いといてやるっ」て。試験案内には、作品はいらんって書いてあったんですけど、いや僕はこっちでいかな負けると思って、レンダリングとかアイソメ図とか、いろんなもの作って持っていきました。以前、小野さんからいただいた電気カミソリをばらして描いたものも。「いらん」って言う人事に、いやそれでも見てほしいと。おかげさまで、英語も数学もほぼ0点だったんですけど、なぜか採用になりました。


採用試験のために作成した《ミッキーパル》の
アッセンブリ図

松下電工の社員になる。

入社後は独身寮に入りまして。朝昼晩、社員食堂。そして、工場実習、営業実習、配属工場実習となって、照明事業部に配属されました。そもそもは商品のデザインを担当するために入ったんですけど、カタログ制作で急遽人手が必要になって、企画部企画課で3年間、カタログつくってました。でもね、この3年間、ものすごく有意義でした。
企画部企画課って、なんでもやらなあかん部署だったんです。当時は8時が始業でしたから、7時に会社に行って掃除して、常務室の売上グラフを書いて、カタログのデザインして、印刷して、発送して。展示会があれば、商品の荷造りから発送まで。表で荷造りするもんだから、会社で日焼けしました。あと、全社会議で部長が発表するために貼り出す模造紙、今で言うプレゼンボードみたいなもんですが、その清書とか。夜中に残業していると電話がかかってきて、展示会の設営が遅れているから今すぐ手伝いに来いとか。僕は商品撮影にも立ち会っていたので、照明器具が箱に入っている状態を知ってたんですね。なので、展示会現場で手際良く箱から取り出して設営してしまった。そしたら次から展示会の設営係に指名ですよ。ずっと設営係。設営して、説明して、撤収して、全国回って ―― もう何から何まで、一から十まで。この企画課の経験が後々役に立ちました。
とはいえ、工業デザインをやりたかったので、課長にも部長にも事あるごとにお願いしてたんです。でもなかなか変えてくれへん。だからいろんな外のコンペに応募して、ちょっと名前でも上がったら変えてもらえるんじゃないかと思ったんですけど、「自転車なんとかコンペ」とか「雑貨なんとかコンペ」とか、佳作ばっかでうまくいかない。そこで、年2回、上司と1対1で面接する1.1.2運動という機会に、「もう、いつになったら変えてくれんねんっ」とキレたわけです。そしたら部長も怒って、「こんだけ面倒みてんのに文句ばっかで。そんなら辞めてまえっ」と。で、「ほんなら辞めたるわ!」という具合です。
とは言っても、部長は陰で動いてくれまして、市場展開部の商品デザイン担当に変えていただいきました。実はコンペを通じて知り合った別の会社からお誘いがあったのですが、辞めずに残らせていただき大正解でした。もう、がむしゃらにデザインしました。門真に8月から翌年の2月までおって、その頃にデザインしたベッドが、第19回毎日工業デザイン賞に入選しました。その後、彦根に移って、シェーバーをやることになるんです。

つくるしかない。やってみるしかない。

もちろん先輩たちが、すでにシェーバーのデザインをやってたんですけど、「お前もやれや」と言うもんだから、ほんならやろかと。先輩と競争して、インダストリアルクレイでいっぱい模型をつくりました。表向きにはよく100個とか言うてるんですけど、実際は50個くらいかな(笑)。そしたら、僕がつくったのを課長が「これや」って言ってくれはった。結果、109万台。これがシェーバー史上、一番売れたやつなんです(スピンネットES620)。
僕はまだ22、3歳で、何も知らんととにかく考えられるものをいっぱい作っただけです。がむしゃらに、もう数つくった。ほんまにそうです。先輩は「俺はこれ。僕はあれ」っていうのがあったけど、そら若いときはわけがわからんから、つくる以外ないんですよ。ただ、これを選んだ課長さんは、いろんなポイントを見てくれてた。持ちやすい。刃が大きく見えるので、パワフルに見える。しかも、無理なデザインしてないんで、製造でも複雑なことは一切せずにできたはずです。標準のモーターが入ってますし。
彦根工場では女性が使うホットカーラーの開発もしていたんですが、行ってみたら開発は男ばっかなんですよね。誰も巻いたことないのに「熱い」だの「重い」だのと言っているんです。この時代、僕は髪があったんでね(笑)。就業規則では禁止されてましたけど、ずっと伸ばしていてほぼ肩までありました。自分でカーラー20本は巻けましたから、これはチャンスだと。巻いたまま会議に出て行ったんです。あの、ほんまにね。ふらふら、ぼーっとするんです。女性はね、それを我慢してやってるんや。「ほら、見てみー!」とか言うて。僕はそれで常務さんに名前覚えてもらいましたけど、なぜか黒川って名前で(笑)。


《スピンネットES620》1974年
世界で初めてステンレス刃物鋼による回転刃を
採用した電気シェーバーで、1974年から78年
に製造され、約109万台を売り上げた。

安全カミソリのかたち。

シェーバーの50年史にありますけど、パッとしなかった往復刃の復活をかけた“デカ刃”(コンピュシェーブES840)が売れなくて、その上、意匠権の問題も発生しまして。だから、徹底的にオリジナルなもので海外のライバルの商品と勝負するぞと、開発総責任者の常務が決意するわけです。僕は当初、そのプロジェクトには入ってませんでした。
みんな「これぞ」と思ったデザインを常務のところにもっていくんですけど、100枚ぐらいポイポイ投げ返されたらしいです。さすがに100枚は大袈裟でしょうけどね。僕が横目で見た限りでは、みんなブラウン(註1)のデザインみたいでした。だから、デザインを担当してた部長がごっつい悩んではったんです。ほんで「お前ならどう考える?」と来はった。常務は「例えば、安全カミソリがあるやないか」と言ってたと。「ほんなら、安全カミソリのデザインにしたらよろしいやん」と、僕なんかは単純にそう感じるわけです。そして絵描いて渡したら、「お前、土日にやってくれ」となり、そこで、「ブラウンは板状だからこう持つ。フィリップス(註2)はこういう形だからこう操作する。そこで、ナショナルは“握るん”です」という屁理屈つけて資料を作りました。そのコンセプトを常務が喜んでくれはったんです。これで世界に勝てるわ、と。まあ、そもそもの言い出しっぺは、安全カミソリって言った常務なんですけどね。
ライバル社のシェーバーのかたちがずっと強かったから、先輩たちのように一生懸命やっていると「カミソリのかたちはこれ」っていう頭になっちゃって、そこから外れないデザインを考える。僕のようにちょっと横に外れていた人間は、不必要なことを知らないから、「こないしたらよろしいやん」とか「なんで?」とかって言えるんです。余談ですけど、(松下)電器産業とこの冷蔵庫にLED照明を売りにいったんですよ。そしたら寄って集ってバカにされて。値段高いって。そんとき冷蔵庫の野菜室が半分しか引き出せないことに気がついて、「なんで?」って聞いたら、野菜室はそんなもんだと言うて。昔は野菜室の奥にコンプレッサーがあったから野菜室はちっちゃかった。でもそれが上に行ったんで、下が広くなったんですね。だから野菜室も大きくなったんだけど、先入観で全部開ける必要もないだろうって。でもデスクの引き出しも、システムキッチンの引き出しも、全部開くでしょ。「全部開くで」って言うたら、みんな「あっ」って顔して。1年もしないうちにパナソニックの冷蔵庫は全開しますって売ってた(笑)。

註1:ブラウン社はドイツのフランクフルト近郊クロンベルクを本拠地とする電気製品メーカー。現在は、P&Gの傘下にある。
註2:フィリップス社はオランダのアイントフォーヘンを創業地とする総合エレクトロニクスメーカー。


《コンピュシェーブES840》1975年
“デカ刃”と呼ばれた《コンピュシェーブ》は1975年製造。外国製品に匹敵するパワーと切れ味をめざした製品であったが、大きさと重さが嫌われ、売り上げは振るわなかった。


《スーパーレザーES820》1977年
画期的なT字型のスーパーレザー

「いいだしべ」会社。

28歳のときかな。色は社内で統一されてた方がいいですよねって、しょうもない会議で喋ってもうたんですよ。「ほんなら、お前やらんかい。委員長だ」って名指しされて、やるはめになった。住宅設備から、照明から、配線器具、家電と全社の色味をみんな集めさしていただいて、2万色を超えたんちゃうかな。それを整合して、いろいろあるプロダクトのカラーを統一しました。例えば、白だったら3色あって、このABCのいずれかを使いなさいと。そうしたら部署の違う製品でも色が合うし、塗料も統一できるからコストも減る。作業の手間も省けるし。
松下電工は見事な「いいだしべ」会社。言った者がやる。だから面白いし、やりがいある。そこは「いいだしべ」会社のすごいエエところですよね。

競争と、勉強と。

松下電工には管理職になるための責任者任用試験っていうのがあって、ほぼ1年間ずっと研修が続くんです。ペーパーテストがあって、労政とか経理とか、QC(品質管理)、安全。ノートつくって丸暗記せなわからへんのですよ。団塊の世代だからね。競争激しかったけど、自分から勉強するきっかけになったし、競争は必要と思いました。
先輩の営業の部長さんなんですけどね。尊敬してますねん。ノートにちっちゃい字で、どこどこの店にいつ行って、どんな土産持って行って、どんなお返しもらって、どんな話をしたか、みっちり書いてあるんです。営業部長なんて何千店ていうナショナルショップ回るから、個々の店には年に1回も行かれへん。せいぜい何年かに1回ですよ。だから、2年ぶりとか、3年ぶりとかになるんですけど、「こないだもらった秋刀魚の一夜干しはおいしかった」って話からはじめるんです。こないだって、それ2年前やんけ。すごいなーって思って、僕も真似せなあかんと思って。まぁ、大したことはできてへんけど。

高校生と、おばちゃんと、そしてアイデア。

33歳のとき、事業部長が2000万やるからデザイン企画やれって。要は、色を変えたり、そんなんで売れるもんを探してこい、ってことです。それで出てきたのが、ペパーミントシリーズ。これまで24歳がメインターゲットだった商品を、高校生を狙って仕掛けたんですよ。高校生向きのシナリオを書いて、色を変えて、『オリーブ』で連載してた仲世朝子さんにキャラクター描いてもらって。7アイテムに色を変えてキャラクター入れただけで売上2億に化けました。
あれは、活性炭使って浄水器をつくってたときですけど、何か新しいのんないかなと思って、「汚いもんキレイにする。汚いもんキレイにする」って唱えながら、相方と居酒屋で酒飲んでたんです。で、「天ぷらちょうだいっ」って注文した後、オヤジが天ぷらあげてる鍋を見ていてひらめいた。「これだっ」と。早速、オヤジに油もらって浄水器の活性炭でろ過してみたら、あらキレイ。そんで相方がその油を武田薬品さんに持って行って調べてもらったら“さら”に戻っとる。
商品出すときに、グループインタビューってやるんです。素敵な主婦のみなさまに来ていただいて意見聞いたら、「いらん」て言われた。「油はそんな何回も使うもんじゃない」と。それで会場の後片付けをしていたら掃除のおばちゃんが代わりに入ってきて、「何コレ?」って聞いてくれた。ちょっと説明したら、「これええやんか!」ってほめてくれた。あっ、聞く相手間違えたわ。おばちゃんに聞こ。ということで、おばちゃんやから「水戸黄門」にCM出して、そしたらわっと5億になりました。
アイデアって、毎日考えていたら、なんか面白いきっかけでひらめいたりするんですけど、考えない人のところにはめったにやって来ないと思うんです。


ペパーミントシリーズ

「辞めたるわっ」と啖呵切った末に会社に残り40年近く。市川氏は「後任がいない」との理由で役職定年もなく、定年退職まで第一線から一歩も引くことなく勤め上げた。実は今回のインタビュー記事で取り上げた仕事やエピソードは、彼のキャリアの初め、新入社員から新任課長時代までの15年でしかない。
市川氏の言葉が、よく届きよく浸透するのは、その語り口の軽妙さや親しみやすい大阪弁のせいもあるが、何よりも率直でシンプルであるからであろう。「なぜ?」とストレートに問いかけること。わからないことはわからないということ。飾らない言葉で説明すること。知らないことを恥じず、勉強することをカッコ悪いことと思わないこと。そして、考えることとやってみること。でも私たちは彼の語りのなかに人生を楽しいものにするたくさんのヒントを発見する。そして、彼のさらっとした口調を作り上げたのは、地道でベタっとした努力に他ならないことにも気づくのである。

聞き手・インタビュー編集:大阪中之島美術館準備室 植木 啓子
*プロフィール、注釈文、インタビュー記事カッコ内補足においては敬称略
*本インタビューは2019年に実施された。

「デザイナーたちの証言」

特集「デザイナーたちの証言」は、IDAPが現在進めているオーラルヒストリー聴取の成果から、テーマを絞りダイジェストでご紹介するものです。IDAPオーラルヒストリーは今後、報告書の発行等によって詳細を公開していく予定です。