中ノ島美術館ロゴ

インダストリアルデザイン・
アーカイブズ研究プロジェクト
Industrial Design Archives Project

デザインを支える人々 01

売ることからつくること、
そして伝えることへ

山口 己年男Mineo Yamaguchi

大阪は天満に本社を置く象印マホービンは、2018年、創業100周年を迎えた。同じく在阪のパナソニック、そして大阪市中央公会堂(重要文化財)と同い年である。今や、日本津々浦々、その名と製品が知られる家電メーカーであるにもかかわらず、その本社の構えは驚くほど控えめである。谷町筋沿いの1階に開設されている「まほうびん記念館」がなければ、思わず通り過ぎてしまいそうだ。
しかし、その佇まいは、大阪が明治から大正、昭和と日本のガラス工業の中心地であったこと、そしてこの企業がその一翼を担うガラスメーカーであったことを記す、老舗の落ち着きの表れとも言えよう。その歴史は、ステンレスの電気ポットに見慣れた現代人にとって、逆に新鮮だ。オイルショック後の1975年に象印マホービンに入社し、営業や商品開発、法務を経て、まほうびん記念館館長として自社のみならず、魔法瓶業界の歴史再発見に尽力した山口己年男氏に聞く。

象印マホービンへの就職

(愛媛県)松山での学生時代は成長していた量販店業界に魅力を感じていたので、学生課に「こんなところを考えているんだけど、どうだろうか」と相談しました。そうしたら「今、魔法瓶業界が結構、伸びているらしいよ」と。「だったら私、タイガー受けますわ」って(笑)。他の魔法瓶メーカーを知らなかった。でも、当時はオイルショックの後で就職難でしたから、先輩が「象印ならウチから一人は絶対採ってくれる」と聞いて、それは心強いと思いました。そこでトントンと決まったんです。同期は工場配属の中学卒業生も含めて25人で、非常に少なかったです。

営業担当としてのスタート

最初から営業で採用という話でしたので、入社後、営業に配属されるのはわかっていました。下積みの意味もあったと思いますが、最初の2年はアフターサービスと実演販売です。お客様相談室のような体制ができるのは後のことで、私たちの時代は、営業の各課が担当地域を決めて、営業担当が個人宅1件1件、アフターサービスに回っていました。修理の勉強をして、故障の連絡が入れば、お宅にうかがってその場で修理、無理なら持ち帰りという仕事です。もうひとつの実演販売ですが、これは私が入社する前年にホットプレートやコーヒーメーカーといった電子ジャー以外の電化製品が発売されたことによって始まりました。そう、店頭での実演販売です。「奥さん、いらっしゃーい。どうですかー」ってね。会社にけっこう大きなクッキングルームがあって、講習を受けました。当時大阪では、和光電気さんとか上新電機さんとか、ミドリ電化さん、マツヤデンキさんが元気で、そういった量販店や百貨店、専門店が実演販売の場所です。

専門店とは?

金物屋さんのことです。当時の主力商品はまさに魔法瓶でしたし、スーパーも現在のような業態ではなかったので、我々の売り先は代理店経由の金物屋さんでした。当時は契約した金物屋さんがたくさんあったんです。家電量販店さんが伸びてくる前は、金物屋さんが販売のメインでした。ですからホットプレートなんかも金物屋さんで売ったんです。ただ、電化製品はなべやかんに混じって、売れ難かったですね。1万円近くして、ポットの倍の値段でしたから。1万円を街の金物屋さんに持っていって、「はい、これもらうわ」という人はなかなかいない。私が担当する金物屋さんで1日実演販売しても、実績はゼロのことが多かったです。百貨店担当の同期が百貨店で同じことをして、1日10台、20台売ってくると、それは凹みましたね。金物屋さんも百貨店さんも値段は同じですから。いやはや、百貨店は強かった。これはお客さんの違い、お店の業態の違いと、自分をなぐさめましたが、結構つらかったです。

象印ハウスウエアの設立

アフターサービスと実演販売の仕事が2年続きましたが、その頃、象印はハウスウェアの販売会社を作るんです(象印ハウスウエア株式会社)。我々はリビング商品と呼んでいたのですが、魔法瓶でも電化製品でもない商品です。氷かき器とか、米びつ(ライサー)とか、ホーロー鍋ですね。商品は結構たくさんあって、この販売会社の営業になったのです。象印としてもこうした商品を強化していかないと会社全体の売上や利益も上がらないだろうとの判断があったと思います。販路は象印本体と同じで、直販ではなく代理店制でした。だから、本体の営業が代理店さんに営業に行く時にハウスウエアの営業担当も一緒に行くんですね。お得意さんには「ややこしい」と言われましたが、ただ、まだ弱い部分だった商品群を集中して押し上げていかなければならなかったのです。売り上げは振るいませんでしたが、少人数でまとまって頑張りました。本体の営業も我々のチームワークをうらやましがったものです。こうした商品が一番売れたのは、金物屋さんではなくて量販店さんやスーパーで、今度はこちらが売り先のメインに変わっていきました。

商品開発へ

ハウスウエアには5年ほどおりました。ですので、営業は延べ8年ぐらいです。ハウスウエアで販売していた商品群の新製品を企画しろということで、象印本体の商品企画室(注:のちに商品開発部に改称。文中は商品企画室で統一)に異動になりました。ハウスウエアは販売会社で、リビング商品の開発は象印本体で行っていたのです。リビング商品の担当が手薄だったので、営業でリビング商品を専門に扱っていた私に白羽の矢があたったのだろうと思います。企画室は当時で7、8人ぐらいだったと思います。商品分野それぞれに2、3人ぐらいがいたかと。
私たちが担当していたリビング商品は、会社全体の左右する商品ではないので、思いつきのアイデアをよく提案していました(笑)。例えば「ホーロー鍋の取っ手を白くしましょう」とか。「いや取っ手は焦げるから絶対にフェノール樹脂を使わなければならない。だから茶色とか黒しかできない」「いや、でも白いの作りましょうよ。綺麗じゃないですか」「いやぁ、焦げるでしょう」なんてやり取りがありましたね。毎月1回の新製品の企画を検討する会議に、いきなりボンとアイデアを出すわけです。役員と営業幹部、開発幹部がズラっとそろった会議室のなかに、私一人がポツンといて「こんな商品が売れると思います」と頭を下げるわけです。ものすごいプレッシャーでした。
ですが、私にとっては非常に大切な部署というか、場所でした。自分たちが考えなければ、商品は世に出ていかない。そうすると会社の力も弱くなる。いわば力の源泉ですからね。結構いい加減なやり方ではありましたが(笑)。しかし、途中から変わっていきました。商品企画室でもやはりマーケティングというものをしっかりやっていかなければならないと。例えばアンケートを実施するとか、グループインタビューのような形式で、いろいろな一般消費者の方のお話を聞くとか、そんなことをどんどんやるようになりました。

商品開発の現場では、企業ごとにそれぞれのやり方やルートのようなものがあると思います。そのアイデアにしてもデザイン部門からとか、営業部門からとかいろいろですが、山口さんが商品企画を担当していた時代の象印さんの場合は、商品企画の部門から、デザインに移り、そこから営業や販売へと移るというプロセスが基本だったのでしょうか?

すべてがそうとは言えません。やはり基礎的な技術が前提にあります。例えば、魔法瓶。開発部隊が楕円形のものをつくってくれと言っても、技術部門からできないと断られますよね。ですから、じゃあ、太瓶のポットをつくりましょうかとなったら、技術的な部分を商品企画が整理してデザイン室に持っていくわけです。反対に、ピエール・カルダンが最初のケースですが、デザイナーズブランドの商品をつくりましょうとなれば、それはデザイン室からの提案です。商品企画の担当は、その提案に沿って企画書を作成することになります。もちろんトップからの要請もあります。良い意味で柔軟性のある商品企画室だったと思います。

象印さんが、異なる部門・部署にも目が届く所帯であったということかもしれませんね。

そういったことでもあったのでしょう。何より社長が結構隅々まで目を光らせていたことが大きい。私の記憶にこんなことが残っています。新しい商品の企画を出したのですが、会議でバツを出されたことがあって。次の日、当時の社長が商品企画室にふらっと現れましてね。私に直接言うんですよ。「昨日な、あれバツ出したけどな。実はあれは〇〇という理由でバツにしてな。だから、こっちの方向でもう一回やってみ」って。そんなフォローまでしてくれる人だったんです。モノづくりにすごく熱心な方でした。

社長との距離が近かったのですね。

近かったです。商品企画は特に近かったですね。

商品企画室時代の開発商品について

ホーロー鍋が一番多かったと思いますが、いろいろとやりました。収納庫とか。電子レンジ台などのスチールの四角い箱ものです。収納庫は当時ヨドコウさんを中心にとても売れている時期だったんです。キッチンストッカーと最初は呼んでいましたが、途中からユトリックという名前になりました。今はもう作っていません。要はこうした商品の価格が下がりすぎてしまったんです。
価格が下がりはじめた頃、象印はどうするかという方向性を考えなくてはならない時、私は高級路線を主張しました。やはり他社とは違う製品を作りたいと思っていたんです。いろいろな家具を見て回るなかで、カリモクの集成材を天板に使ったシリーズがとてもきれいで注目しました。当時、台の天板は白とかグレーのメラミン板だったのですが、木の天板をユトリックに使おうと思いました。ただし、高い。いやもう、これは高くても絶対に差別化になると。会社のオーケーは出ましたが、やっぱり高すぎて売れなかった。売れなかったのですが、この後、業界全体的に木目の天板に変わっていったのです。このときは、業界の先頭を走れたなと感じました。
商品企画室時代の最後に魔法瓶を担当しました。ステンレスボトルですね。卓上ポット(ステンレス魔法瓶)は電気ポットに凌駕されていくわけですけど、水筒類(ステンレス魔法瓶)はこれから伸びていくぞという時でした。商品企画室から総務部に異動となったため、商品化までは立ち会えませんでしたが、中期商品会議で提案して構想を後に引き継いだものに、フッ素コート加工があります。これは今のステンレスボトルにも残っています。

フッ素コートの加工を提案するきっかけは?

フッ素加工の最初はフライパンですよね。リビング商品を担当していた時代に、私はずっとホーロー鍋にフッ素加工をしましょうと言っていたのですが、新しい設備が必要だとか、値段が高くなるとかがあって、反対されてつくれなかった経緯がありました。その後、魔法瓶担当になった当時のステンレスボトルは、底に溶接の跡が残っていたのですが、フッ素加工すればきれいになると思いました。マイナス部分がなくなって、さらにフッ素加工でお手入れが簡単というプラス要素がひとつ増える。これをやってみたらどうかと、上司と一緒に提案しました。総務部に移った後に商品化され、かっこいいコマーシャルまで放映されました。「あー、俺が考えたヤツができた」と思いましたね。

ステンレスボトルは他社となかなか差のつきにくい商品ですよね。

軽量コンパクトは大きな売りでした。それと同時に取り組んだのが、へこまないボトル。技術者が相当頑張ってつくりました。ある量販店のバイヤーさんが工場に来られて、私が技術者と対応したときのことをよく覚えています。バイヤーさんが「何か新しいのできたらしいけど、(売りは)軽量コンパクトだけ?」と言うので、「違います。へこまないです」と。技術者が鉄の塊を上から落としてボトルにぶつけて「ほら、へこまないでしょ」って。バイヤーさんも「すごいねー」って。商品企画が営業に代わって、お得意さんを説得するような、技術的な特長からバイヤーさんを口説き落とすようなことをやったこともありました。
単機能商品ですからね。電化製品はまだいろいろと変わった機能をつけることもできますが、ステンレスボトルにはできませんからね。フタが開けやすくなりますとか、自動で開きますとか、そういった機能は付けられますが、他社が同じことをすれば、それに対抗する別の機能があるわけではないですから。非常に難しい商品企画になります。デザイン室も相当苦労してきたはずです。

魔法瓶メーカーであること

象印マホービンは、社名でも明らかですけど、魔法瓶やジャーのメーカーですが、今やおそらく(非電化の)ガラス魔法瓶製ジャーを思い浮かべる人はもうほとんどいないでしょう。今の人々の記憶の起点は電子ジャーだろうなと思います。最初は一社独占のような状態で、1ヶ月で100万台を売り上げたぐらい売れに売れたわけですから。あの時の強烈な印象と培われた信頼が、その後の商品のブランド力につながったと思います。魔法瓶屋が電化製品の炊飯ジャーをつくることが、普通に受けとめられるのも、あの電子ジャーのインパクトあってのことでしょう。タイガーさんも続きましたし。販売の最前線では、対抗する大手の家電メーカーさんから象と虎の「猛獣狩りだ」なんて言われていたと聞きました(笑)。
広告宣伝にしても、大手メーカーさんが炊飯ジャーなどのコマーシャルをどんどん打ち出してきたのは近年のことで、その前は小型調理家電のひとつでしかない炊飯ジャーのコマーシャルに力を入れているわけではなかった。一方で象印は社運を賭けて炊飯ジャーのコマーシャルを打っているわけですね。そこでやはり知名度が違ってきたのかなという気はします。大手メーカーさんは、炊飯ジャーがちょっと売れなくても会社の屋台骨が揺らぐわけではないですが、我々にとっては土台からひっくり返るくらいのことですから。


象印電子ジャー〈RH16〉花化粧 1970年

炊飯ジャーのデザイン

炊飯ジャーで、デザイン的に一番大きな変革をもたらしたのは、マリオ・ベリーニでしょう。ベリーニは炊飯ジャーの前に電気ポットのデザインを手掛けましたが、これには業界が驚嘆したし、商品は大ヒットしたのです。そこで次に炊飯ジャーとなりました。”ご飯を炊く”炊飯ジャーにヨーロッパのデザイナーを起用したということ自体大きなことですが、なんとベリーニは炊飯ジャーのハンドルをなくしました。日本のおひつの形態に戻した。我々はこの炊飯ジャーをU F Oと呼んでいました(笑)。それまでの炊飯ジャーには必ずハンドルが付いていたんですが、そもそも炊飯ジャーをあちこち動かすことはほとんどなく、動かすときはわざわざハンドルを使わなくても、おひつのように両手で持って動かせばいい、というのがベリーニの考えだったのでしょう。ところがこれが売れなかったんです。これは日本人の固定されたジャーのイメージのせいではないでしょうか。もともと電子ジャーは、フタと一体になっているハンドルを持ってフタを開けるようになっていたでしょう。これは私の思い込みではなくて、その後の実績が語っていることなのです。ハンドルがないと不思議と売れない。少なくとも象印ではそうでした。


マイコン炊飯ジャー
<いろいろ炊ける NMB-E10>
デザイン:マリオ・ベリーニ 1987年


電気エアーポット
<ミニ・デカ CAN-2201>
デザイン:マリオ・ベリーニ 1985年

総務部からまほうびん記念館へ

定年の前、60歳のちょっと前に希望してまほうびん記念館の館長となりました。総務では後進も育っていたし、プロフェッショナルもいましたので、自分は一体この先何をしようかと考えていたのです。そんなとき、初代の館長が辞めるという、人事も後任を誰にしようかと困っているということを聞きまして、これをやろうと。総務時代に建築や不動産も担当していたので記念館の設立にも関わっていましたし、営業や商品企画時代の商品知識も役に立ちそうだし、総務にいるよりお客様の案内をするほうがいいのではないかと思ったのです。
以前は、記念館に展示されている商品の99%は象印マホービンのものでした。他社の会長さんに「あれは、象印記念館」だと言われましたし、私もこれは魔法瓶の記念館ではないなと感じました。他社の製品を並べて展示するようになったのは、2016年の4月からです。もともと初代の館長の時代から他社の製品も展示して充実させたいという気持ちはあったようです。
きっかけは企画展でした。2012年の「日本のまほうびん 生誕100年」という企画展の際に、どんどん同業他社に出ていって、製品の借用をお願いしました。そうして他社とのコンタクトが広がりましたし、マスコミにも取り上げていただきました。少しずつ、まほうびん記念館は象印のことだけ考えているんじゃないと分かってもらえたと思います。

最後に

「家電業界に入るのは嫌だ。我々は象だけど、マンモスみたいな業界には入りたくない」と、2代目の社長が、電子ジャーの発売に踏み切るときのことを述懐しているのです。ご飯の保温が魔法瓶では上手くいかず、アルミのケースの底裏に村田製作所のポジスタ(PCTサーミスタ)を入れると非常に上手くいった。しょうがないなと。よいものはやはり世に出すべきだと。家電業界に足を踏み入れたくないけど、結局は踏み入れざるを得なかったわけです。私は電子ジャーを、三種の神器とは言わなくても、5つ目ぐらいに入れてほしいのです。電子ジャーで、家庭の食生活がまったく変わったと思いますよ。朝炊いたご飯は、たとえ魔法瓶に入れていても夜には冷めてしまう。でも、電子ジャーなら、夜、会社から帰ってきてもホカホカですからね。それは大きな変化だったと思います。

まほうびん記念館は象印マホービン90周年に際して、社長が「作る」と言い出し、山口氏らは大反対したという。「一体、誰が来るのか」と。しかし、もしかして社長は、象印ではなく魔法瓶をあえて館の名前にすることで、魔法瓶といえば象印という業界の第一人者のイメージ形成を図ろうとしていたのかもしれないと、山口氏はあらためて深読みする。山口氏は100周年の年の1月に65歳の誕生日を迎え、象印マホービンを卒業することになった。創業100周年のまほうびん記念館リニューアルオープンには立ち会うことができなかったが、山口氏が築いた「日本のまほうびん」を伝えるメッセージは、そこに変わらずある。

聞き手・インタビュー編集:大阪中之島美術館準備室 植木 啓子
*プロフィール、注釈文、インタビュー記事カッコ内補足においては敬称略
*本インタビューは2017年に実施された。