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インダストリアルデザイン・
アーカイブズ研究プロジェクト
Industrial Design Archives Project

デザイナー達の証言 04

すべてのものは変化のプロセスにある

内藤 政敏Masatoshi Naito

1937年 静岡県浜松市生まれ。1960年 東京教育大学(現筑波大学)教育学部芸術学科を卒業後、松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)に入社。電化本部の企画部意匠課に配属となり、デザイナーとしての一歩を踏み出す。1972年 家業を継ぐため退社。1973年 内藤工業デザイン研究所を設立。1974年 松下電器に再入社。以来、電化本部デザイン部デザイン室長、意匠センター管理室長、テレビ本部デザイン部長を歴任し、1988年 総合デザインセンター所長に就任。1997年の定年退職まで、同社デザイン部門のマネジメントを主導するだけでなく、各種デザイン団体における活動を含め、企業内デザイナーが創造性を発揮できる環境整備に尽力した。

1951年、松下幸之助が「これからはデザイン時代」と言い、松下電器産業株式会社に日本初の製品意匠課(社内デザイン部門)が設立された。そして千葉大学工業意匠学科で教鞭を執っていた真野善一が、初代課長として松下のデザインを率いることになる ── 戦後日本の工業デザイン史は、神話のようにこのくだりから始まることが多い。まるで、この年に日本の工業デザインが始まるとともに、すでに完成された道が前に一直線にのびているように。しかし、発足当時の松下電器製品意匠課にはわずか数名の社員。進むべき道どころか、方向すら定まらない状況であったことは想像に難くない。企業のなかでデザインを行うということは、ただ製品を設計することに終始することではないだろう。「デザイナーたちの証言」第4回は、日本が安保闘争に揺れる1960年、「デザイナーは未来社会に何を寄与しうるか」と問う日本初の国際デザイン会議「世界デザイン会議」の開催を控えた春に松下電器に入社し、京都議定書が採択された1997年12月まで、松下のデザインを支えた内藤政敏氏に話を聞く。

デザインを学ぶ:東京教育大学(現在の筑波大学)への進学

漫画みたいな話なので、人に威張って語るようなことではないのです(笑)。だいたいデザインなんてまったく知りませんでした。興味もなかったです。絵も描いたことなければ、まともに線すら引いたことがない。
高校時代は剣道ばっかりやっていました。僕の高校はGHQの剣道禁止が解けて、いち早く剣道部を作ったせいか他に比べると強くて、僕も3年生のときにインターハイの選手になっちゃったんです。「野球で言えば甲子園だ」と先輩たちは競って教えに来るし、大変でね。3年生なのに受験勉強する余裕なんてとてもなかったけれど、大学入試は待ってくれない。浜松ののんびりとしたところで育ちましたから、志のようなものがなくて、しかもお金もないから、とにかく国立に、しかも一期校に入りたいと思いました。何かカッコいいからね。そうすると通常受験8科目なんですが、どう考えても間に合わない。でも根拠はないけど5科目なら何とかなるかもしれない。真剣に調べましたね(笑)そうしたら唯一、受験5科目だったのが東京教育大学の教育学部芸術学科でした。加えて実技とあるけど、そんなの知ったこっちゃない。
その実技試験 ─ 5分間外を回って見てこいと言われ、戻ってきたら、今見てきた建物を描けと言われて。何のことやらですが、とにかく描いた。幼稚園児みたいに一生懸命。でもね、ふと、隣のヤツの絵を覗いたらね、まるで違うんですよ。めちゃくちゃ上手くて、ビックリ仰天しました。あぁ、ダメだなと、心底思いましたね。だから関西で働いていた叔父の勧めで同志社の経済を受けました。ところがさぁ下宿を探すぞというときに、東京教育大学合格がわかったんです。「そんなバカな。採点間違いじゃないか」と思いました。それでも叔父は同志社に行けという。だいたいその専攻は何をやるところなんだってね。建築は分かるが、工業デザインって何だと。駅前で看板描いているやつがいるが、ああいうのかと。そうではないと思うけど、僕もよく分からん。でも、元の高等師範学校なんだから、学校の先生にはなれるだろう。 僕としては、京都より東京行きたかったしね。という、何ともしょうもない経緯で進学を決めました。

大学の同級生

同級生は7人でした。最初この7人とまったく話ができなかったんです。例えば、ル・コルビジェについてみんなで話したりする。僕はこれまでデザインなんてまったく考えたことなかったから、何のことか分からなくて…。
デザインに対する当時の一般的な認識なんて、僕の叔父のようなものだったのでしょうけど、意識して勉強してきた連中は、ちゃんと分かってた。日本の行政だって通産省にデザイン室つくった。レイモンド・ローウィの「口紅から機関車まで」が翻訳されたのは、僕が中学か高校の時だったかな。だから、同級の友人7人は、僕よりずっとデザインを知っていたし、スケッチやパースも上手かった。まぁ、僕も4年間勉強して卒業はできました。もっとも成績は悪かったと思いますが。

松下電器への入社の経緯は?

4年生の夏休みに企業実習があるんです。企業からどっと実習の案内が来ました。ほとんど電機メーカーです。僕と同級生のひとりが浜名湖近くの出身で、教授がそれなら少し関西に近いだろうと勧めるので、ふたりで松下の実習に行くことになりました。
実習が終わって帰ってきたら、入社OK、合格だと。せっかくそう言ってくれているんだから、行ったらどうだと教授も言うし、ふたり揃って松下に入社することにしました。僕は関西に行くことに抵抗はなかったです。
とにかく、高校時代から会社に入るまで、ほとんど巡り合わせの積み重ねです。

入社後の仕事

昭和35年入社、最初の配属は電化本部の企画部意匠課、つまり白物担当でした。電化本部は当時、豊中市にありました。
白物の事業部はたくさんあるんです。洗濯機事業部だ、アイロン事業部だ、炊飯器事業部だ、暖房機事業部だとね。そういう事業部を取りまとめる本部の意匠課で、僕は暖房機の担当でした。ただ、暖房機事業部は地理的に少し離れたところにあったんですよ。だからデザイナーを近くに欲しかったのでしょう。主任以下4名が本部からしばらく事業部に行かされました。本部に帰ってきたのが昭和38年。

ガスストーブGS3000。これは内藤さんが手がけられた製品ですね。

上にやかんが置けるようになっています。ガスストーブは、その後ずいぶん長い間、このかたちのままでした。
これは僕の傑作。よく売れたもんだと思いますよ。


GS-3000
長期に渡り基本形が変わらなかったガスストーブ。
優れたデザインに備わる合計的耐久性を示す好例。

ところがその後退職されています。

12年勤めてやめました。当時僕はアメリカ輸出用の白物デザインの担当で、アメリカ出張中に電化本部の所長に「私、辞めたいんですけど」と言ったこと覚えています。
家業が綿織物業だったんです。親父は戦争で亡くなっていましたが、細々と続けておりました。僕は長男ですからね。叔父に継いで欲しいと言われまして、浜松に帰ることにしました。でも、1年間やって、どうしてもイヤになった。綿織物重いし、先行きは暗いし。そこで結局家業放り投げて、武蔵野美大のデザインを出た弟と、浜松でデザイン事務所始めたんです。叔父にしてみれば愕然としただろうね。

内藤工業デザイン研究所について

浜松で最初の工業デザイン事務所です。田んぼの真ん中にちっちゃなマンションの1室を借りてね。電話引いて机置いて、お客さん待っていたんですが、来るわけないよね(笑)だいたい工業デザインに対する認識が一般にはないんだから。結局、弟の友人だったかの伝手で、ライサー、米がザーって出てくる箱をデザインしました。それが最初ですね。それをきっかけにだんだんお客さん増えてきまして、事務所は40年続きました。

しかし、内藤さんご自身は松下に復職されています。

浜松の先の袋井に松下の洗濯機工場があって、あるとき私の上司だった菊池(禮)さんや電子レンジ事業部長の小川(守正)さんら松下の偉いさんたちが、この袋井工場に来ると連絡があったんです。ついては僕に会いたいとのことで、浜名湖のホテルでお目にかかりました。
そしたらね、「約束が違う」と言われました。「家業を継ぐからと辞めたはずだ。ところがデザインをやっている。デザインやっているんだったら、松下でやらんかい」と。個人的な事情で辞めたわけですから、そんなことを言ってもらえるとは思ってもみなかった。そして思い出したんです。みんなと一緒に仕事をしていたときの雰囲気とか ─ そしたらもう急に里心がついて、松下に帰りたくなりました。ありがたいことに、叔父も「そんな会社があるのか」と驚いて、背中を押してくれました。すでに叔父の役に立ってなかったし(笑)

復職後は本社勤務でした。

松下に帰ったら当然また電化本部に戻るのだと思っていましたが、配属先は本社。何をするのか分からなかったけど、ちょうど本社の意匠部が意匠センター(後の総合デザインセンター)になったときだったんです。意匠センターで真野(善一)さんの下につくことになりました。真野さんが所長で、次長に倉田(一幸)さんがいました。倉田さんはデザイナーではなくて、営業にいらっしゃった方で、僕は大好きでしたね。倉田さんから受けた影響がとにかく大きい。僕の原点だと思っています。

その原点とは?

倉田さんに言われたんです。「内藤くん、本社ではデザインの連中を原始人のようだと言っているのを知っているか」と。
電化本部にいたときは、毎日機嫌よく楽しくやっていました。自分がデザインしたものが製品になって、店頭に並ぶわけです。これには誰でも興奮するでしょう。だから職場にも活気があった。自分の仕事が役に立っていると信じて疑わなかったし、とても恵まれているとも思っていました。それがあの言葉です。これは強烈なショックでしたね。
以来、デザイン職能を強く意識するようになりました。これまでのようにバラバラに好きなようにハッピーにやっているのでは足りないのだと。全社ですでに300人はいたデザイナーたちの環境づくり、企業人意識の醸成への思いがとても強くなりました。全社的な動きに対してデザインは率先してやると、心に決めました。例えばキャリアパス。その人間がどう動いて、どのような仕事を経て、どのように力をつけていくのかというキャリアパスを本社が推進することになって、職能ごとにプランを作成しろと言われた。よし、デザインは最初に提出しようと、責任者集めて話をしました。当然、反発もありました。机叩いてケンカしましたね。
もうひとつは、デザインの認知度を上げること。これは僕自身の経歴が大きく影響しています。僕はデザイン下手くそだし、知識もなかった。だからこそスゴイやつらがたくさんいることが分かる。彼らのポテンシャルの高さは大変なものだった。だから上手く動けば、もっと裁量の範囲を拡大することもできる。要は、その前提となる環境をつくること。松下という企業において、我々はちゃんとした職能団体なのだと、全社的に分かってもらわなければならない。そのためには社内で広報をしなければならない。「クリエイト」という社内雑誌をつくって毎月発行しました。
デザイナーはもっと活躍できると思ってきた。例えばね、販売応援という業務があって、デザインからも人を出す。販売現場に行って商品を売るんです。特段優秀な人間を出すわけではないけど、みんなね、めちゃくちゃ成績いいんですよ。これはやっぱりデザインの経験ゆえのことだと思います。生活の実相というか空間感覚というか、そういうものが売り言葉になっているのでしょう。デザイナーは売ることよりも、使う人の生活を第一に見ているから。


社内デザイン情報誌『クリエイト』1982年2月創刊

組織のなかのデザイナー

組織というものはやはり数の論理というものが働くわけです。技術者が何万もいるなかで、デザイナーは300人から400人。全社的にはあるかないか分からん規模ですよ。さらにみんな散らばって仕事をしている。事業部制ですから、デザイナーは基本的に事業部所属、つまり事業部長の下です。大勢のところは30人ほどいるけど、少ないことは3人だったり、バラバラなの。そんなデザイナーたちを一ヶ所に集めてひとつの組織にしたいと、上申したこともあります。そのときは軽く流されてしまいました。機が熟してなかったのでしょうね。その後、一度、実現したことがありましたが、それはそれでいろいろ問題もあって。
意匠センターはデザイナーをひとつにまとめた組織ではなくて、全社のデザイン部門の共通部分の管理を担っていました。採用、人事とか教育とか研修とか。それから渉外的なところ。講演会であったり、プロモーションであったり。そこにはGマークを含めて産デ振(日本産業デザイン振興会。現在の日本デザイン振興会)との関係も含まれます。センター内にGマーク委員会を置いて、各事業部の責任者に推薦する商品を提出させて、そして相互に選ぶというシステムもつくりました。加えて、大きな仕事が未だ事業部となっていない事業やデザイナーのいない事業部のデザインに対応すること。デザイナー組織の一本化が理想であるとも限らないし、実際、無理な話だとしても、せめて、みんなの活力を保つためにデザイナー同士の横のつながりはね、大切にしなければならないと思っていました。デザイン・フォーラムとか、総合デザイン会議とか、何かとデザイナーが集まって交流する機会をつくりました。
総合デザインセンターの所長になってからは、《MOVE90》を始めました。年に1回、各事業部のデザイナーたちが商品化に至っていない新しいアイデアのモデルをつくって展示会をやるんです。そこに社長とか事業部長とか強引に連れてきて見せる。商品化に至るまでにはいろいろな壁があって、特に販売から「こんなもんつくっても売れるか」と言われたらそれまでだったりします。でもトップが「あれエエやんか」と言ってくれると、その壁を乗り越えられたりする。90年から5〜6年続けてやっているんだよね。


新しい生活様式「フロアライフ」に呼応し生まれた
カラーモニターαTUBE(1984年)。
当時、内藤氏はテレビ本部のデザイン部長として、
デザイナーたちをまとめていた。

企業のなかでの「美しさ」

90年代に入って、社長が「もっとデザイン指向の商品づくり」と言い出した。関係会社社長会議でそんなテーマで話をしろって、僕のところに回ってきたわけ。僕はいつも思うんだけど、企業のなかではね、「美しさ」なんて言葉は、女子供のものだというところがあるんだよ。だから、話の冒頭にまずこう言った。「あなたがたは世の中を知ったつもりでいて、デザインなんて女子供を相手にした仕事だと思っているでしょうけど、今、街中に出て、バーとかレストランとかに入ってみなさい。あなたがたの今の姿かたちにピタッとくるところなんて、滅多にないんですよ。そこにピタッとはまるのは、女性であるとか、学生であるとか、子供たちなんです。我々とそういった場所にはギャップがある。そこに意識を向けなければならない」ってね。ちょっと怖かったですけどね(笑)


「MOVE96」の展示風景

内藤氏のこの発言は、英国の経済紙『フィナンシャル・タイムス』に取り上げられた。90年代初め、松下電器がデザイン重視の方向をレポートする記事のなかで、彼の言葉はさらに続く。「世界は変化しており、我々も変わっていかなければならないのです。」
量から質へと価値基準が変化していくなかで、デザインの役割や可能性がどんどん広がってきていると体感したのだろう。デザインとデザイナーの力に誰よりも魅せられ、その創造性を誰よりも信じてきた内藤氏が紡ぐストーリーは、説得力に溢れていた。
実は内藤氏の言葉は、世界のリーダーたちの思想・考えを集めた名言集に収録されている 曰く── すべてのものは変化のプロセスにある。変化に抗えるものは何もない。我々は永遠を追求すべきではない。

聞き手・インタビュー編集:大阪新美術館建設準備室 植木 啓子
*プロフィール、注釈文、インタビュー記事カッコ内補足においては敬称略

内藤氏は昨秋、永眠されました。これまでの多大なご協力に感謝するとともに、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

「デザイナーたちの証言」

特集「デザイナーたちの証言」は、IDAPが現在進めているオーラルヒストリー聴取の成果から、テーマを絞りダイジェストでご紹介するものです。IDAPオーラルヒストリーは今後、報告書の発行等によって詳細を公開していく予定です。